私たちは彼らが不憫(ふびん)でなりません。
かわいそうなのは、デ・トマソ傘下時代に製造された、いわゆる「デ・トマソ期ビトルボ系列のマセラティ」さん達です。今だに彼らは、当店を知らない(あたりまえ?)全世界の自動車マニアから不信感に満ち満ちた目を向けられております。
そもそも、ビトルボ以前のマセラティは(1970年代後半頃までの話)・・・
ボーラ、メラク、カムシン、インディ、メキシコ、ミストラル(デユオポスティ)、セブリング(3500GTSI)、そしてギブリ(初代:ギアボディ)、クアトロポルテ(初代:フルアボディ)・・・。名前を列挙するだけで心がおどりますな。
(個々の車についての詳しい説明は他のコーナーを参照)これらのオルシ傘下/シトロエン傘下時代は、イタリアの量産カーメーカー(フィアット/ランチア/アウトビアンキ/アルファロメオ等)はいうにおよばず、超少量生産のライバルメーカー達
(フェラーリ/ランボルギーニ/イソ/デ・トマソ等)と比較しても、その上品かつ上質なフィニッシュは群を抜いていました。また、当時のマセラティの特徴は、たとえ目新しさはなくとも、すでに確立している信頼感の高い設計を
(たとえ時代遅れといわれても)とりながら、腕さえよければ他の12気筒のライバル達とも対等以上に渡り合えたという、コンベンショナルさにありました。
で、話は身近なビトルボに移りますが、まず自社の経営不振によりシトロエンがマセラティを見限った事が話の発端になります。そのとき危機に瀕したマセラティを助けにきたのはアレサンドロ・デ・トマソさんでした。 デ・トマソさんもしばらくは様子見に従来のスーパースポーツを作らせていましたが、そのうち傘下のイノチェンティの空いた生産設備を利用して、なんとマセラティを量産しようというのです。この時は、世界中のカーマスコミは大騒ぎでした。 カーグラあたりでも、「ポルシェがシビックをつくっちゃったようなもの(要旨)」といった血迷った(笑)表現で、読者に理解を訴えていました。まさに雲の上の存在だったマセラティが天空から舞い降りてきちゃったわけです。
当時のカー雑誌をひもときますとビトルボには絶賛の嵐が吹き荒れていたのがわかります。悪いことは一つも書いてない。それがここまで評価をさげたのは、いったい何なのでしょう?
ここからは、日々コイツラ(ビトルボさん達)とおつきあいをさせて頂いてきた我々の所見ですが、この悲喜劇に題名をつけるならば「伝統と格式と原価計算と客層の狭間で・・・」といったところでしょうか。
デ・トマゾさんはビトルボで「BMWの3シリーズの市場をちょっとだけもらえればいい」と思っていました。で、当初は「ちょっともらえ」ました。
しかし、信頼性の固まりのようなドイツ製アッパーミドルサルーンのお客さんをもらっちゃったため、あとあと大変なことになっちゃったわけです。
ここでは、80年代の終わりから90年代初頭当時の日本での状況を考えてみましょう。世は「バブル景気」の全盛期。